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走れオタク 弐

manegoto

 ムロトは激しい頭痛に苛まれながら目を覚ました.生まれてきたことを後悔したくなるような頭痛だった.もっとも,後悔すべきは飲みすぎたことなのだろうが.なんとか起き上がろうとするが,身体がいうことをきかない.仕方なく,ムロトは起き上がるのを諦めて,仰向けのまま頭痛に耐えることにした.窓の外で,すでに太陽は高く昇っているようだ.昨夜激しく降り続いた雨の気配は去り,空は目が痛いほどに青かった.と,胃の内容物が逆流する気配がある.今度は不思議と身体が動いた.ムロトはトイレに駆け込み,変わり果てた大五郎とあまり変わっていないわかめちゃんと何時間かぶりの再会を果たした.とくに感動はない.ムロトは,胃液と大五郎の海のなかにわかめちゃんが島のように浮かんでいるのをぼんやりと見ながら,繊維質が胃ではほとんど分解されないことを改めて学んだ.
 手を洗い,口をすすぎ,顔を洗うと,ようやく人間らしい気分が戻ってきたものの,まるで頭が働かない.ムロトは,洗面台に手をかけてうつむいたまま頭が働き出すのをしばらく待った.しかし状況は一向によくならなかったので,諦めて手と顔を拭いて洗面所から戻り,いつものようにテーブルの前に座った.ふとテーブルを見ると,表面が妙に汚れている.ひとしきりティッシュで拭いてみても汚れはとれない.ふた呼吸ほどおいて,その汚れが油性マジックでつけられたものであることにムロトは気づいた.さらにひと呼吸おいて,その汚れがどうやら文字らしいことにも.「走れ」というのは何とか判読できたが,あと三文字がどうにも読めない.おそらく「ムロト」と書いてあるらしいと推測した時点で,ムロトはようやく昨日のことを思い出した.行かなければ.ムロトはスウェットを脱ぎ捨てると急いでシャワーを浴び,ランニングウェアを身につけた.ムロトは,身なりにはあまりこだわらないにもかかわらず,なぜかランニングウェアには一家言あるオタクであった.ムロトは,これからの行程に必要なエネルギーを手早く摂取すると,押入れからシーツを取り出し,件の抱き枕カバーを収めた額を素早く包んでビニール紐で縛り,玄関に向かった.靴を履いた後,もう一度テーブルの方を見やると,最前判読に手こずった三文字が先ほどとは別の文字列に読めた.あれは友情と信頼の物語であったな.ムロトは思った.あるいは,昨晩の俺はあの物語のことを今日の俺に思い出させたかったのかもしれぬ.酔っ払いの知能は往々にしてナメクジ並だが,彼らはしばしば真理に達することがある.玄関の鍵をしめると,荷物を脇に抱え,ムロトは駆け出した.
 およそ天地の間,多くの物事は一枚岩ではなく,オタクもまた例外ではない.運動が苦手と雑なレッテルを貼られがちなオタクの中にあって,ムロトは,足の速いオタクであった.最初は二日酔いのダメージが重く思うようにスピードが出なかったものの,脳内麻薬の分泌とともに,徐々にペースは上がりつつあった.おまけに,折りよく穏やかな追い風がムロトの背中を押し始めた.郊外から市中に入り,川沿いの道に出るころには,ムロトの心には余裕さえ生まれていた.ずいぶん寝過ごしてしまったものの,このまま行けば約束の時間までにカタギビルに到着できそうだ.ムロトは,信号をさけるために河川敷に降りた.
 すると,前方に一隊のオタクが躍り出た.本人たちの認識では「FFの世界から抜け出したようなカッコイイいでたち」なのであろうが,客観的にみれば「エキセントリックな,ホスト崩れのいでたち」であり,白昼堂々好き好んでそのような格好をしている彼らがオタクであることは一目瞭然であった.
「待て」
「何をするのだ.私は陽の沈まぬうちにカタギビルに行かねばならぬ.放せ」
「どっこい放さぬ.持ちもの全部を置いていけ」
「私にはこの額の他には何も無い.その額も」ここでムロトは一瞬言葉に詰まったが,思い直してすぐに続けた.「友人のために運んでいる最中だ.お前たちにやるわけにはいかぬ」
 友人のハードルをあげ過ぎるあまり,ムロトに友人はいないことになっていたので,この言葉はこそばゆくてどうにも使い慣れなかった.
「その額が,いや,その額に収められた例のカバーが欲しいのだ」
「貴様,どこでそれを?」
「昨日酒場で聞いたのよ.俺たちをエレクトさせるすげえブツが市中を運ばれるとな.そのままパーティを結成して,こうして待っていたのだ」
 なーにがエレクトだ,そうやって英語のスラングを織り交ぜることによって醸し出されるケレン味は三次元ではキモいだけなのがわからんのか,素人め.つーか酒場でパーティ結成とかルイーダの酒場かよ,とんだDQ脳だ,だいたいFFかDQかどっちかにしろよ.ムロトは舌打ちした.いらだつムロトに構わず,強盗(オタク)たちは一斉にムロトに襲いかかった.
 双方とも喧嘩に慣れていない非力なオタクであったため,その泥仕合いは醜態を極めた.しかし,シーツを縛るビニール紐が強盗(オタク)たちによって切られ荷物が露わになると,強盗(オタク)たちの士気はあがり,ムロトは徐々に劣勢に追い込まれた.こんな阿呆どもに付き合っていては埒があかぬ.自分のことを棚に上げて,ムロトは考えた.三十六計逃げるに如かず.ムロトは荷物を抱えたまま川に向かって駆け出した.驚いた強盗(オタク)たちはムロトに追いすがり上着をつかんだが,ムロトは逆らわずにそのまま上着を脱ぎ捨てるや否や強盗(オタク)をそれで縛り上げて蹴り倒した.これは,ムロトが私淑するスキンヘッドのイカした英国人俳優がその主演作品で披露した技をアレンジしたものであり,非力なオタクたるムロトが心得ている唯一の体術だった.周知の通り,オタクの知識には往々にして悲劇的な偏りがある.残念ながら上衣がすぐに尽きたため,蹴り倒せたのは三人ほどだったが,強盗(オタク)たちを萎縮させるには十分だった.今やムロトは上半身裸であった.しかしそんなことには構わず素早く靴と靴下を脱ぐと,思わぬ反撃に戸惑う強盗(オタク)たちを尻目に,荷物を抱えたままざんぶと流れに飛び込んだ.昨晩降り続いた雨の影響で川は増水しており,上流からの大量の土砂と木々の枝を運ぶ流れは,猛り狂う龍虎がそこで争っているかのような激しさであった.強盗(オタク)たちは悲鳴をあげた.
「あ,馬鹿!そんな泥水に入っては,至高のカバーが,唯一無二のアフターストーリーが!」
「たわけ!私の防水防塵処理は完璧だ!しかも耐水圧性では,四〇〇〇〇mmまで耐えられる仕様だぞ!」
 ムロトは,防水防塵だけでなく耐水圧性にもこだわりがあった.周知の通り,オタクの知識には往々にして喜劇的な偏りがある.濁流はムロトを苦しめたが,ムロトは渾身の力をこめて荷物を高く掲げ,足の力だけで濁流を泳ぎ切った.しかし,推進力を足の力に頼るあまり,流れてきた木の枝に引っかかったズボンはいくつかに引き裂かれ,そのまま濁流に呑まれてしまった.対岸にたどり着いたムロトが身につけていたのは,ズボンの下に身につけていた黒のコンプレッションタイツのみであった.黒タイツは木の枝によってあちこちが大きく破れており,ムロトの立ち姿はおよそ正視できないほどに卑猥であった.ムロトは,被覆面積が著しく減少した黒タイツ一丁ですっくと立ち,額に納めた萌え抱き枕カバーを脇に抱え,対岸で頽れる強盗(オタク)たちをきっと睨んだ.平時のムロトなら,恥ずかしさのあまり舌を噛み切っているところであった.しかし,若干のランニングと強盗(オタク)たちとの闘い,さらに濁流との死闘を経て,ムロトの気分はムロト史上最高に高揚していた.脳内麻薬は実に多くのことを解決する.再び,ムロトは駆け出した.
 暖かい春の日差しが降りそそぐ河川敷,裸足で感じる土の感触,穏やかな追い風,被覆面積が著しく減少した黒タイツ一丁という軽装,ランニングに伴う脳内麻薬の分泌.ムロトはこれまで経験したことがないほどの多幸感に溢れていた.思わず,今走っている理由を忘れそうになったほどである.そのうちに目的地周辺に近づいてきたので,ムロトはスピードを落としながら河川敷から繁華街に続く道路にあがった.そこには,パトロール中らしい二人組の警察官がいた.警察官たちはムロトを見たが,うまく情報を処理しきれないようで,ぽかんと口をあけるばかりだった.ムロトは,彼らの前をできるだけゆっくりと通り過ぎると,今度は全速力で駆け出した.駆け出したムロトの後ろから,警察官の悲痛な叫びが追いかけてきた.
「ちょっ,きみっ,待ちなさいっ!」
 二人の警察官を振り切るのはそれほど難しいことではなかったが,彼らが応援を呼んだらしく,新手の警察官が次々と現れてムロトの前に立ちはだかった.ムロトは警察権力から逃れるべく繁華街を疾駆し,結果としてカタギビルから徐々に離れてしまった.そのうちに,パトカーのサイレンがあちこちで鳴り始めた.夕闇迫るまちにこだまするパトカーのサイレン,切れ始めた脳内麻薬,たまりきった乳酸.警察官の追跡をまいて逃げ込んだ路地で,ついに,ムロトはがくりと膝を折った.立ち上がる事ができぬのだ.抱き枕カバーの収められた額を抱きしめて,くやし泣きに泣き出した.ああ,強盗(オタク)を打ち倒し,濁流を泳ぎ切り,警察権力の網をここまで突破してきたムロトよ.足の速いオタク,ムロトよ.今,ここで疲れ切って動けなくなるとは情けない.あの度量の大きいリア充は,お前に心を許したばかりに,やがて破滅しなければならぬ.お前は,どう考えても堅気ではないカタギ氏の思う壺だぞ,と自分を叱ってみるのだが,身体に力は入らず,心は完全に折れてしまっていた.もういいや,諦めよう.ムロトは,これまでの足掻きようにはまるでそぐわない見切りのよさであっさりと諦め,ごろりと仰向けになった.起床時に見た空の青も美しかったが,今の,燃えるような空の紅も美しいな.ムロトは思った.そうか,もうすぐ陽が沈むのか.まあいいさ,服を失った理由の過半は犯罪被害(オタクによる強盗)にあるとおまわりさんに説明すれば,いくらか留め置かれるとしても,最終的に起訴されるようなことにはなるまい.だいたい,いささか被覆面積が減少しているとはいえ黒タイツをちゃんと身につけていて全裸ではないわけだし,なんとかなるだろう.カタギ氏は俺に,ちょっと遅れてこい,と耳打ちした.昨夜の俺は,ぶっちゃけ当初は自分でもサトウを破滅させようとかちょっと思っていたにもかかわらず,カタギ氏の誘いには乗るまいと必死でテーブルにメッセージを書きつけた.けれども,今になってみると,カタギ氏の提案も正直悪くない気がしている.俺は,警察から放免された後,いささか遅れていくだろう.カタギ氏は,ひとり合点して俺を笑い,一〇〇〇 倍になったテナント料の半分を俺に支払う旨を定めた契約書をよこすだろう.そうなったら,俺に支払われる金をそっくりサトウに渡したとしても,やはりテナント料は実質五〇〇倍になるのだ.そもそも俺はサトウに金を渡すだろうか,その辺も怪しい.ああ,なんだか考えるのが面倒臭くなってきた.何もかも馬鹿馬鹿しい.どうにでもなるがよい.ムロトは四肢を投げ出して,うとうと,まどろんでしまった.

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