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走れオタク 壱

manegoto

 ムロトは激怒した.必ず,かの度量の大きいリア充を破滅させねばならぬと決意した.ムロトには三次元がわからぬ.ムロトは,二〇世紀末からゼロ年代にかけての各種創作物で散々ネタにされていたような,古式ゆかしい陰のあるオタクである.もっとも,ただオタクという言葉には回収しきれない個性をもつ男でもあった.たとえば,「俺なんてどーせダメさ」とうそぶき,苛烈な自虐と迂遠な韜晦と不安定な自尊の間を彷徨いながら自分をもてあまし,四畳半に引きこもって暮らしてきたことなどがあげられる.それはともかくとして,リア充の度量の大きさに対しては,人一倍敵意をもっていた.今朝,ムロトはいつ洗濯したのかもわからぬスウェットのままで自宅を出発し,頑なに信号を守って横断歩道を渡り,歩道を疾走する横暴なサイクリストに落ち着いて道を譲り,スウェットを着た道交法と言うべき行いの正しさで,日々の潤いの在り処,メロンブックスにやって来た.ムロトには家族も,友人も無い.というか,近頃はそもそも言葉を交わす人が無い.ついでに言うと,ネクラでボッチでヒッキーというトリプル役満であり,もう人生をあがるもやむなしという状況に追い込まれている.いかにも,二〇世紀末からゼロ年代にかけての各種創作物でスティグマ化されたオタクの属性をひとつひとつ丁寧に拾いあげ,よせばいいのにそれらの極北を見定め,何を血迷ったかそれらを一身に背負ったような生き様である.もっとも,それだけで終わる単純な男ではなかったが,それはおいおい明らかになるだろう.ちなみに一六の頃に買った,お気に入りの抱き枕と二人暮らしだ.この抱き枕カバーに描かれたキャラクターを演じた声優は,共通の友人の紹介で出会ったというある律儀な青年実業家を,近々,花婿として迎える事になっていた.結婚式も間近なのである.ムロトは,そんなことはどうでもよく,今朝なんとなく散歩に出た後,春の陽気に誘われてなんとなく店に来たのだ.店頭の商品を一通り物色した後,ムロトは店を出てぶらぶら歩いた.俺すら目的もなく外出する気になるのだから,春には変質者が増えるというのも道理であるな,とムロトはほくそ笑んだが,なぜこの状況で「ほくそ笑む」のかムロトにもよくわからなかった.大事な事なので繰り返すが,ムロトにはツッコミをいれてくれる家族も友人も無い.したがって,こうした出来事はオチがつかないままにムロトの記憶の底に沈みがちであった.大事な事なのでもう一度繰り返すが,ムロトには家族も友人も無い.が,仇敵があった.サトウである.今は魔都東京で,ITベンチャーの技術者にして経営者として活躍している.そのサトウが,この近くに新しいオフィスを構えたことをムロトは思い出した.これはムロトの,昼夜を問わぬ不毛なネットストーキングにより得られた確かな情報であった.サトウの率いるITベンチャーが新しくオフィスをもつことについての経営上の意義はよくわからなかったが,オフィスを見れば彼我の差に絶望するだけであることは確かであった.ムロトは,必死でオフィスのあるあたりから離れた.
 歩いているうちにムロトは,まちの様子を疎ましく思った.もう既に陽も落ちて,まちが暗くなるのが自然の道理のはずだが,けれども,なんだか,イルミネーションは煌々と輝き,その下を行き交う人々の表情が,やけに幸せそうだ.ムロトは,だんだん腹が立ってきた.路で逢った幸せそうな若者をつかまえて腰の物で真っ向幹竹割りにするという,いかにもオタクらしい妄想を展開して,ムロトは辛うじて平静を保った.ムロトのそばを通る現実の若者は,虚ろな目でブツブツ言っているムロトを一瞬冷めた目で見て,次の瞬間にはその存在を忘れていた.と,妄想の展開に気を取られて,ムロトは強面の若い衆にぶつかってしまった.妄想の中なら腰の物でなで斬りにするところだが,現実ではそうもいかず,怯えるムロトは「ドゥフフwww」と意味不明な音を発することしかできなかった.強面の若い衆は両手でムロトのからだをゆすぶって質問を重ねた.ムロトは,目線で周囲の人に救いを求めながら意味不明な音を発し続けた.
「ああ?何言ってんのかわかんねーよ.どこ見て歩いてんだって聞いてんだよ!」
ドゥフフwww」
「いきなりぶつかってきやがってよお,謝罪もなしか?ああ?」
ドゥフフwww」
「なんだてめえ,日本語喋れよ!」
ドゥフフwww」
「ごまかしてやり過ごそうっていうのか?いい度胸じゃねえか,こっちに来いや!」
 狭い路地に引きずりこまれ,ムロトは恐怖のあまり泡を吹いて倒れんばかりだったが,口から漏れる音は相変わらずだった.「ドゥフフwww」
 ムロトは,根性のない男であった.しかし,破滅的なクソ度胸は人一倍持ち合わせていた.一瞬の隙をついて路地を抜けだしたムロトは,近くのビルに飛び込んだ.たちまち彼は,警備員に捕縛された.調べられて,ムロトの懐中からは知る人ぞ知る同人誌が出て来たが,よい子も買える健全なものだし,何より対応するのが面倒臭いし放免してもいいかということになりかけた.が,居合わせた警備員の一人が同好の士であったこともあり騒ぎが大きくなってしまった.ムロトは,ビルのオーナーの前に引き出された.
「こないな本を抱えてうちに飛び込んで来はって,どないしはるつもりでしたん?」
 オーナーは静かに,精一杯笑いをこらえて問いつめた.オーナーの顔は蒼白で,必死で笑いをこらえる顔面筋肉はかすかに痙攣していた.
「通りを歩いていたところ,私の不注意から人にぶつかってしまいました.そこから一悶着あって路地に連れ込まれたのですが,なんとか逃げ出してとっさにこちらに飛び込んだのです.その本は先ほど買い求めたものです」ムロトはやけくそになって答えた.やけくそになったムロトの滑舌は悪くなかった.「お騒がせして申し訳ありません」
 そのとき,部屋のドアが開いて,二人の男が入ってきた.一人は先ほどムロトと一悶着あった強面の若い衆で,もう一人は小綺麗な身なりの爽やかな青年だった.ムロトの姿を認めるや否や,強面の若い衆の形相が変わった.殺気をみなぎらせて,強面の若い衆はムロトに詰め寄った.
「やめなさい,カトウ」オーナーは,低い声で強面の若い衆を制した.先ほどまでのふざけたエセ京都弁は影も形もなく,その迫力はどう考えても堅気のそれではなかった.オーナーはムロトの方に向き直り,静かに頭を下げた.「ご無礼をお許しください」
 ムロトは曖昧に頷いたが,生来の馬鹿正直さを発揮した.
「あ,いえ,私が先ほど通りでぶつかったというのは彼でして,無礼を働いたのはむしろこちらの方です」
「おや,そうでしたか」オーナーは何か考える様子であった.「通りで体が少し触れたくらいで騒ぐなど見苦しい」オーナーはカトウの方を軽く睨み,さらにムロトの目を正面から見て言った.「まあしかし,けじめはつけてもらわないといけませんね」ドスの効いた声が部屋に静かに響いた.
「カトウさん,この方はそう悪い人ではありませんよ」張り詰めた空気に耐えられなくなったのか,警備員がカトウをなだめにかかった.
「彼はこれの尊さがわかる人なのです」警備員は机の上の同人誌をカトウに示しながら言った.
「この本は……!」カトウは目を見開き,流れるような動きでその本を手にとって検め,ため息をついた.
 カトウの心中などムロトには知る由もなかったが,カトウの眼差しが少し穏やかになり,その輪郭が柔らかくなっているのを見て安堵し,喉まで出かかっていた「ドゥフフwww」という音を飲み込んだ.
「あ,この絵の感じ,ムロトくんのお気に入りの抱き枕カバーに描かれている絵の感じとよく似ているね」カトウの肩越しに同人誌をのぞき込んだ爽やかな青年は,微笑みながらムロトに話しかけた.「久しぶりだね.ムロトくん」
 渋谷駅前交差点の人の流れさえ止めると謳われたその優雅な微笑みをムロトが見間違えるはずがなかった.ムロトは,国道四七七号沿いでは並ぶ者がないかもなと噂されたぎこちない笑顔で,その爽やかな青年にして不倶戴天の敵,サトウに応えた.「久しぶり,サトウくん」
「この絵に似ている感じで,抱き枕カバーで.ということは,まさか,まさかとは思うが,あのクダマキネコ先生の……!」カトウは両手でムロトの肩をつかみ,早口でまくしたてた.自分の興味関心について語ろうとするオタクは,早口になりがちである.
「そうそう,クダマキネコって人のだったっけ.普段使い用に一つと,それとは別に直筆サイン入りを額に入れて保存してたよね,確か.なんか,サインの横に直筆でマンガも描いてあるやつ」
 カトウの勢いに怯えるムロトの代わりに,のんびりとサトウが答えた.それを聞いたカトウは,恍惚とした表情で天井を見上げた.
「それは,あの,世界でただひとつしかないという,他で発表されていないアフターストーリーが書き込まれているという,伝説の抱き枕カバー……!」
「ほな,その抱き枕カバーいうんをうちのもんに見せたっておくれやす.それで手打ちにしましょか」
 再びエセ京都弁に戻ったオーナーが割って入り,カトウとムロトに言った.カトウは忘我の表情のまま深く頷き,ムロトも仕方なく頷いた.二人の了解を認めたオーナーは満足げに微笑んだ.
「そやけど,このままお家にとりに帰ってもらうんもなんやね.そや,サトウはん,この人,ムロトはんいわはりましたか,ムロトはんと仲良ししてはるんやろ?ムロトはんが抱き枕カバーとりに行っとる間,人質になってくれはります?」オーナーはいたずらっぽく言った.
「ええ,かまいませんよ.僕でいいかな,ムロトくん?」サトウが感じよくムロトに尋ねた.再び,ムロトは仕方なく頷いた.どうこう条件をつけられる立場では無い.
 カトウとオーナーが知る人ぞ知る同人誌を改めて検めている間,サトウはムロトに話しかけた.「結婚式の下見の関係でたまたまこっちに来てたんだけど,久しぶりに会えてよかったよ」ここで,サトウはいまだ忘我の表情のままのカトウをちらりと見やり,苦笑いした.
「カトウさん,悪い人じゃないんだけど,ちょっと気が短いからね.納得してもらえてよかった」
「助かったよ.ありがとう.というか,結婚するんだね.おめでとう」
 一般に笑顔と解される表情をつくりながら,ムロトは祝福の言葉を口にした.小心者のムロトは,いかなる相手に対しても,必要とあらば表面的には礼儀をつくす技術に習熟していた.
「ありがとう.詳細が決まったら招待状を送るけど,都合つくなら来てね.ムロトくんはこの手の,社交というのかな,そういうのあんまり好きじゃないかもしれないけど,奥さんになる人は声優をやっててさ,業界の友人が来てなんか演し物をしてくれるらしいし,ムロトくんも結構楽しめると思うよ」
「奥さんになる人,声優をしてるの?」
「うん.あ,そっか,一般人ってことで僕のことは公にはしてないんだけど,近々結婚するって発表してた声優,あの人と結婚するんだ.一応内緒にしといてね」
 サトウは,ある声優の名前を告げた.今旬の人気声優であり,かつて,かの抱き枕カバーに描かれたキャラクターのCVを担当したあの声優であった.ムロトは辛うじて動揺を隠しながら,もごもごとお祝いの言葉を繰り返した.起業に成功し,新オフィス設立など事業拡大に臨むかたわら,あの人気声優を娶るとは.なんというリアル,なんという充実.
 よい子も買える同人誌を改めて検め終わったオーナーが,サトウとムロトの方にやってきた.
「そや,単に人質としていてもらうだけいうんも面白ないし,なんか条件つけましょか」
「いいですよ.そうですね,じゃあ,ムロトくんが明日の日没までに戻ってこなければ,向こう五年分のオフィスのテナント料を先日決めた額の二倍にしてください」
 サトウはムロトの方を見ながら,片目をつぶって見せた.彼はこうした仕草がどうしようもなくキマる男であった.ムロトの中で何かがはじけた.
「一〇〇〇倍」思わずムロトは呟いた.そこで,オーナーの目が一瞬鋭く光ったのをムロトは見逃さなかった.
「一〇〇〇倍かあ.きついこと言うなあ,ムロトくん」
「ええやないですの.こういうゲームは景気よういかんと,ね?」
 オーナーの冗談とも本気ともつかぬやんわりとした圧力を笑顔でいなしながら,サトウはホールドアップで応えた.
「わかりました.じゃあ一〇〇〇倍で結構です.ちゃんと戻ってきてね,ムロトくん」
 聞いて,ムロトは激怒した.呆れた度量の大きさだ.このリア充,生かしておけぬ.およそ筋の通らない怒りだったが,ムロトは工夫を凝らして自分の怒りを正当化した.このリア充,生かしておけぬ.
「なんや盛り上がってきましたなあ.ああ,申し遅れましたけど,私はカタギ言いまして,まあこの辺でいろいろ商売さしてもろてて,縁があって先日サトウはんとビジネス上のお付き合いができたんですわ.この辺でいくつか,このビル,カタギビル言うんですけど,このビルを含めていくつか物件をもってまして,サトウはんにもそのひとつをお貸しすることになっとるんですわ」
 カタギのエセ京都弁は,エセ関西弁へと微妙にシフトしつつあった.ムロトの激情にはまるで気づく様子がなく,いよいよ楽しそうである.
「ほんなら,改めてちゃんとルールを決めまひょか.明日の日没までに,このカタギビルの屋上に,その抱き枕カバーいうんを届けてください.そやね,宅急便で送るとか,タクシーで乗り付けるとかいうとおもろないし,車,バイク,自転車,各種交通機関は利用せんことにしまひょか.要は,自分の足でここまで来るいうことですわ.よろしか?ムロトはんの家からここまで歩くなり走るなりして来れます?」
 ムロトは黙って頷いた.
「ほな決まりですわ.明日の日没までには戻ってください.遅れたら,サトウはんのオフィスのテナント料を,きっと一〇〇〇倍にします」
 サトウとムロトがカタギに頷いてみせ,そこで話は終わりになった.サトウが相変わらず忘我の表情のままのカトウに話しかけに行く間,カタギは殊更声を落として,囁くようにムロトに言った.
「そうや,ちょっと遅れて来るとええですよ.そしたら,増えたテナント料の半分,ムロトはんに差し上げますよって」

 ムロトはカタギビルを飛び出した.道中雨が降り始めたが,ムロトはかまわず歩き続け,濡れ鼠になりながら家に着いた.玄関のドアを開け,ムロトは冷蔵庫に直行した.そして,冷蔵庫からとりだしたコーラとペット焼酎を目分量でマグカップに注ぐと,一息に飲み干した.空きっ腹に焼酎甲類が突き刺さり,戦いの火蓋が切って落とされた.しかし,二杯三杯と杯を重ねるうちに,早くも肝臓の敗色は濃くなった.とても分解しきれる量のアルコールではなかった.もっとも,ムロトには「酔いつぶれたいとき,またそのときに限り廉価な酒をしこたま飲む」という悪癖があり,敗戦は既定事項であった.このまま酔いつぶれてしまえば,明日の日没までに抱き枕カバーをカタギビルに届けることなどできはすまい.自分がネクラ・ボッチ・ヒッキーのトリプル役満で人生をあがる前に,サトウを一〇〇〇倍のテナント料で飛ばすことになるわけだ.どうしようもない下衆に成り下がったものだな.ムロトは自嘲気味に笑い,薄汚れたマグカップをぼんやりと見つめた.
「俺のことをわかってくれるのはお前だけだ,大五郎」早くも泥酔したムロトは,ペット焼酎のボトルを撫でながら独り言ちた.雨が激しくなってきた.
 大五郎がムロトの理解者でないことくらい,泥酔したムロトにもわかっていた.だいたい,大五郎は焼酎甲類であって人類ではなく,そもそも生物ですらない.なお,酵母は生きている,という指摘はひとまず措く.
 それにしても,ムロトを理解してくれる人なんているのだろうか.ムロト自身,ムロトのことがわからないままに二〇余年生きてきたのだ.
 ムロトは貧困と質素の境界線上にある生活に慣れていたし,そんな生活をそれなりに愛してもいた.したがって,サトウが事業で成功していることを妬んでいるわけではなかった.そのはずだった.ムロトは慎ましいオタクであり,声優の結婚に際して見苦しく騒ぐようなオタクではなかった.したがって,サトウが声優と結婚することに悪い感情をもってはいなかったし,祝福するのもやぶさかではなかった.そのはずだった.そもそも,俺はリア充それ自体を妬んでいるわけではなかったはずだ.ムロトは思った.俺はリアルが充実している人間がしばしば備えている,ある種の度量の大きさが我慢ならないのだ.これは生理的嫌悪感というやつであり,犬がチョコレートを食べられず,猫がネギを食べられないのと同じことで,仕方がないことなのだ.ゆえに,サトウは俺の仇敵にならざるをえないのだ.ムロトは自分に言い聞かせた.
 サトウは出会った頃から度量の大きいリア充であり,ムロトが細心の注意を払って彼を遠ざけたにもかかわらず,それを意に介さず時々ムロトの部屋に遊びに来るほどだった.少し油断すると,サトウと自分はどこか似ていて波長が合うことをムロトは認めそうになった.そんなとき,ムロトは自分の憎しみの心が折れないように,古今東西の神々に祈りを捧げた.わりと真剣に.
 一体俺は何にこだわってきたのだろうか.今更ながらムロトは考えた.考えていると,なんだか口淋しくなってきたので,ムロトはふえるわかめちゃんをそのままかじりながら杯を重ねた.食料品の買い出しを怠っていたので,つまみになりそうなものが他にはなかったのである.考える,わかめちゃん,大五郎.考える,わかめちゃん,大五郎.三ステップの行為を幾度か繰り返すうちに部屋の隅の鏡に目が留まり,ムロトは映し出された自分の姿を見た.ただでさえくたびれたスウェットは雨に打たれてひどい有様であり,泥酔した自分の顔に濡れた髪が張り付いている様子のみすぼらしさといったらなかった.身なりにはあまりこだわらないムロトだったが,さすがに思わず目を背けた.そして,理解した.
 俺はリア充の度量の大きさを憎んできたのではない.それを憎んでいることにして,そこに意識を集中することで,卑小で狭量な己から目を背けてきたのだ.また,リア充を妬んでいないわけでもなかった.妬んでいる己を認めるのが怖くて,リア充の度量の大きさのみを憎んでいることにしたのだ.なんという愚かさ,浅ましさ.なんという弱さ,いじらしさ.
 己を欺くことは,どうしてこんなにも容易いのだろう.
 ここまで思い至ると,過去の自分の言動のあれこれが思い出され,ムロトは悶絶した.そして,やり場の無い怒りから,マグカップの中身を一息に飲み干すと,テーブルに叩きつけた.ムロトは非力であったが存外大きな音がしたので,となりの部屋の住人が静かにしろとばかりに壁を叩いてきた.安下宿の壁は薄いのだ.その音を聞いて,ムロトは一瞬我に帰り,怒りは悲しみへと変わった.ムロトは声を押し殺して泣いた.こんな簡単なことに思い至らなかったことを悔いて泣いた.周知の通り,酔っ払いの喜怒哀楽は秋の空より変わりやすいのである.泣いているうちに,疲れがでたのか睡魔が襲ってきた.いかん,このまま眠ってしまっては駄目だ,何か手がかりを残しておかなければ目覚めた時に今日のことを覚えている保証は無い.遠のく意識のなかでムロトは思った.それは駄目だ.ムロトは,最後の力を振り絞ってそばにあった油性マジックを手に取ると,テーブルに明日の自分へのメッセージを必死で書きつけた.そこで,ムロトの意識は途切れた.

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